昨年12月に亡くなったご近所(同じマンション)の猫ジジのお骨は、火葬後、その一家の皆が集う居間に安置してある。 机の上で、家族のさまざまな思いをこめた小物と一緒に並んでいるのである。 骨壷は可愛い着ぐるみを被せてもらって、お人形のように見える。 クリスマスやお正月には、それらしい飾り付けをしてもらったことであろう。 ジジはこの世を去ったのちも、家族の気持ちを優しくし、ひとつにまとめる働きをしているかのように思う。
同じ頃亡くなった、別の知人の家(一戸建て)の猫は、庭の一隅に埋葬された。 一家の居間からよく見える場所に、寂しくないようにとの家族の思いをこめて。 お墓参りに行ったら、数日後、その家の双子のお嬢さんたち(小学生)から、丁寧なお礼状が届いた。 心の温もりが沁み出してくるような文面であった。
それぞれ、家の形態が違い、弔いの仕方も異なって当然である。 そんなことは問題ではない。 2匹の猫の霊は、もっとも家族の心を通わせやすい場所に存在することを得たのだ。 人間の場合、弔いとは、もちろん故人を偲ぶ儀式ではあるが、残った人々の今後の生き方を確認するためのものでもある、とよく言われる。
動物嫌いの人には「猫と人間を一緒にするな」と叱責を受けるかもしれない。 しかし、私は思う。 このような小さな生き物が人々の心に残した灯火が消えず、連綿と命の糸を紡ぎ大切にしていく大きな流れに合わさっていけば、結局は人類のためによりよき道を開くのではなかろうか。
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